セッジです!おはようございます!
この記事は note の「こんなデザイナーになりたい」という企画に合わせて書いたものを少し修正しています!
この記事は note の「こんなデザイナーになりたい」という企画に合わせて書いたものを少し修正しています!
あなたは現在の職業、あるいは今現在のあなたの「原点」というものについて考えることはありますか?
私は学校の休憩時間中になにげなく生徒と談話しているとき、
ふと生徒からみた《セッジ》像を語られたことがあり、その原点について思いをよせたことがあります。
先生って職人気質ですよね
そういう風に見える?
ですね~先生の話す内容とか、作るものとか、人となりがそういう感じです!
なるほど。
もしそう見えるとしたら、父親の影響だろうね
もしそう見えるとしたら、父親の影響だろうね
そうなんですね!どんなお父さんだったんですか?
今回はこの何気ない話から思い出していった、私の原点ともいえる父のことについて語ってみようと思います。
「デザイン」の定義
日本での《デザイン》は、「美的なセンスを使って形作る」という認識を持っている人が多いと考えられます。
しかし《設計》という言葉にしたらどうでしょう?
精密に計算された図面、そしてそれにより製品が生み出されることをイメージする人が多いのではないでしょうか?
《デザイン》というと華やかで柔らかなイメージ
《設計》というと硬派で、実のあるイメージ
実際に私も仕事をするようになるまではそう考えていたこともあります。
そして、専門学校の先生ですら、そのように考えている人は多いのです。
でもこの2つの言葉は本当は同じ意味です。
デザイン=設計は「実用的になるように考慮して設計する」ことが重要です。
イメージ的に言えば「硬い仕事も柔らかい仕事もできる人」ということになるでしょうか。
回路設計は実際に機械などが電気的に動くように回路図を作る仕事。
プロダクトデザインはいわば製品の外観を設計する仕事ということになります。
回路設計は何かを間違えば機械として動作しなくなりますし、プロダクトは使いやすくすることや、使用者の愛着がわくように美しく(カワイク)作る必要があります。
幼少期から回路図を見て育った私は、回路図にも美しさを見出す性質があり、それもあってセッジデザインのロゴは回路図っぽいところがあります。
父の場合は内部の回路設計をし、それが収まる外観をデザインする。
いわば内側も外側もデザインするタイプでした。
大抵の設計士が製図用具のみ使用していたのに対し、それ以外にもマーカー、パステル、など画材などを使用し、製品を生み出していました。
パソコンを設計に取り入れていたのもかなり早い時期だったと記憶しています。
しかし《設計》という言葉にしたらどうでしょう?
精密に計算された図面、そしてそれにより製品が生み出されることをイメージする人が多いのではないでしょうか?
《デザイン》というと華やかで柔らかなイメージ
《設計》というと硬派で、実のあるイメージ
実際に私も仕事をするようになるまではそう考えていたこともあります。
そして、専門学校の先生ですら、そのように考えている人は多いのです。
でもこの2つの言葉は本当は同じ意味です。
デザイン=設計は「実用的になるように考慮して設計する」ことが重要です。
父の職業
私の父は回路設計士であり、プロダクトデザイナーでした。イメージ的に言えば「硬い仕事も柔らかい仕事もできる人」ということになるでしょうか。
回路設計は実際に機械などが電気的に動くように回路図を作る仕事。
プロダクトデザインはいわば製品の外観を設計する仕事ということになります。
回路設計は何かを間違えば機械として動作しなくなりますし、プロダクトは使いやすくすることや、使用者の愛着がわくように美しく(カワイク)作る必要があります。
幼少期から回路図を見て育った私は、回路図にも美しさを見出す性質があり、それもあってセッジデザインのロゴは回路図っぽいところがあります。
父の場合は内部の回路設計をし、それが収まる外観をデザインする。
いわば内側も外側もデザインするタイプでした。
大抵の設計士が製図用具のみ使用していたのに対し、それ以外にもマーカー、パステル、など画材などを使用し、製品を生み出していました。
パソコンを設計に取り入れていたのもかなり早い時期だったと記憶しています。
フリーハンドで直線が引ける?
自分の子どもが自分と似た特性を持っていたら、あなたはどう考えるでしょうか?
私は娘が似た特性を持っているため、伸ばす方向で考えています。
父の場合もおそらくそうだったようで、私にはおもちゃを与えるよりも画材を与えてきたことが多かった印象があります。
正直言えば私は、まわりの友達が持っているようないわゆる《超合金》と呼ばれていたアニメのロボットのおもちゃが欲しくて、それを持っている友達をうらやましく思っていました。
しかし、父はアニメなどを見ること自体は禁じなかったものの「オリジナリティが育たない」とあまり流行りのおもちゃは買ってくれませんでした。
幼少期はそれこそ、粘土で宇宙戦艦ヤマトをまねて作ってみたり、ロボットをまねて作ってみたりそんなことをしていた記憶があります。
高校生になったある時、私が美術の方向に進むということを決め、本格的にその勉強をはじめたころ、父は私を部屋に呼ぶと、
と唐突にたずねてきました。
何を当たり前のことを言っているのかと答えると、
デッサンを勉強するということは、人体解剖図などで人間の体の構造も学ぶことになるため、やや頭でっかちになっていた私は以下のように答えました。
それを聞いた父はおもむろにA4の用紙を取り出し、ズバッと音を立てながら何気なく直線を引いていたのです。
もちろんフリーハンドで。
ニヤニヤしながら定規を渡され、調べてみればたしかに定規を使ったのかというような直線だったのです。
と宿題を出されてしまいました。
これはいまだに答えを見つけることができない宿題となってしまいました。
私は娘が似た特性を持っているため、伸ばす方向で考えています。
父の場合もおそらくそうだったようで、私にはおもちゃを与えるよりも画材を与えてきたことが多かった印象があります。
正直言えば私は、まわりの友達が持っているようないわゆる《超合金》と呼ばれていたアニメのロボットのおもちゃが欲しくて、それを持っている友達をうらやましく思っていました。
しかし、父はアニメなどを見ること自体は禁じなかったものの「オリジナリティが育たない」とあまり流行りのおもちゃは買ってくれませんでした。
幼少期はそれこそ、粘土で宇宙戦艦ヤマトをまねて作ってみたり、ロボットをまねて作ってみたりそんなことをしていた記憶があります。
高校生になったある時、私が美術の方向に進むということを決め、本格的にその勉強をはじめたころ、父は私を部屋に呼ぶと、
お前もデッサンの勉強始めたようだが、直線引けるか?
と唐突にたずねてきました。
定規使って?そんなの誰でも普通に引けるでしょ?
何を当たり前のことを言っているのかと答えると、
いや、そうじゃねえんだよ。フリーハンドでだ
デッサンを勉強するということは、人体解剖図などで人間の体の構造も学ぶことになるため、やや頭でっかちになっていた私は以下のように答えました。
それは無理でしょー!人の体って円運動するようにできてるんだから
それを聞いた父はおもむろにA4の用紙を取り出し、ズバッと音を立てながら何気なく直線を引いていたのです。
もちろんフリーハンドで。
どうだ?直線引けるだろ?定規当ててみろ
ニヤニヤしながら定規を渡され、調べてみればたしかに定規を使ったのかというような直線だったのです。
ど、どうやってやるの??
慣れだ慣れ。とにかく練習してやり方考えてみろ
と宿題を出されてしまいました。
これはいまだに答えを見つけることができない宿題となってしまいました。
グラフィックに進むのは反対だった
私がなぜ高校時代から美術の勉強を始めたかというと、要するに美術大学に行きたかったからです。
美術の勉強はとても楽しく、特にデッサンと立体構成が好きでした。
画塾の先生も熱心に絵の勉強をしていると評価してくれていましたが、いかんせん学力が全然足りていませんでした。
やはり大学というだけあって、一定以上の水準の学力が必要になるわけで…。
私は大学受験に失敗してしまいました。
ということになり、私は専門学校を探すことにします。
いくつか学校見学をしていたなかで「名前をよく聞き、学科専攻が多い学校」だった母校を選ぶことにしました。
父は学校選びそのものについては反対はしませんでしたが、
学科選びで大きな反対を受けることになりました。
私はイラストレーターにもなりたかったので、その可能性もあるグラフィックデザイン科(当時はその中にイラスト専攻があった)を選択したのです。
父は私がプロダクトデザイナーになる事を望んでいたのです。
父のイメージを端的に言うなら「昭和のオヤジ」そのものです。
割と怒りっぽい人ではあったし「〇〇とはこうあるべき」論の強い人でした。
そういう「強い父親」に育てられた気の弱い息子としては本来であれば言う事に従うところですが、
とおそらく父にとっては初めて息子に反抗されたせいか、それ以降は何も言わなくなり、私はグラフィックの方向に進むことになりました。
実は当時は、
などとかなり甘いことを考えていて、父たちから吸収できない部分を学校に求めていたのでした。
しかし、その甘い考えは専門学校1年の冬にすべて壊れることになります。
この年の冬、父は46歳の若さで突然死してしまいます。
おそらくそこを起点として、私自身にも大きな変化が起こりました。
まだ社会には出たくないと思っていたのが、とにかく早く仕事ができるようになりたいと考えるようになっていたのです。
美術の勉強はとても楽しく、特にデッサンと立体構成が好きでした。
画塾の先生も熱心に絵の勉強をしていると評価してくれていましたが、いかんせん学力が全然足りていませんでした。
やはり大学というだけあって、一定以上の水準の学力が必要になるわけで…。
私は大学受験に失敗してしまいました。
何年続けたとしても成功するかわからない浪人はダメだ
ということになり、私は専門学校を探すことにします。
いくつか学校見学をしていたなかで「名前をよく聞き、学科専攻が多い学校」だった母校を選ぶことにしました。
父は学校選びそのものについては反対はしませんでしたが、
学科選びで大きな反対を受けることになりました。
私はイラストレーターにもなりたかったので、その可能性もあるグラフィックデザイン科(当時はその中にイラスト専攻があった)を選択したのです。
グラフィックなんて看板屋じゃねえか!中身の無い仕事なんてするな!
父は私がプロダクトデザイナーになる事を望んでいたのです。
父のイメージを端的に言うなら「昭和のオヤジ」そのものです。
割と怒りっぽい人ではあったし「〇〇とはこうあるべき」論の強い人でした。
そういう「強い父親」に育てられた気の弱い息子としては本来であれば言う事に従うところですが、
でも…グラフィックも面白いかもしれないよ?
とおそらく父にとっては初めて息子に反抗されたせいか、それ以降は何も言わなくなり、私はグラフィックの方向に進むことになりました。
実は当時は、
専門学校卒業したらワンチャン大学に編入できないかな
プロダクトのことは父とその友人のデザイナーから教えてもらえばいい
などとかなり甘いことを考えていて、父たちから吸収できない部分を学校に求めていたのでした。
しかし、その甘い考えは専門学校1年の冬にすべて壊れることになります。
この年の冬、父は46歳の若さで突然死してしまいます。
おそらくそこを起点として、私自身にも大きな変化が起こりました。
まだ社会には出たくないと思っていたのが、とにかく早く仕事ができるようになりたいと考えるようになっていたのです。
絶対に勝てないライバルとなった父
こうしておそらく父が私に受け継がせたかったモノは受け継がれないまま父は亡くなってしまいました。
それは家業を継いでほしいとかではなくて、父が蓄えてきたスキル的なものを継承させたかったのだろうと考えています。
「定規なしで直線を引く技術」はデジタル時代の今では一発芸のようなもの。
これができなければ仕事にならない、というものではありません。
ただ父が私に教えたかったのは、おそらくは「出来ないというのは思い込み」であり、「突き詰めていけばできることがある」ということだったのではないかと考えています。
そういうことも含めて私自身も引き継ぎたいことはたくさんありました。
いまや父の最期の年齢を超えてしまっています。
しかし、それでも未だに父に勝っているとは考えられないのです。
想い出の中の存在を相手にしたら勝てないのは当然なのですが、イメージの中だけでなく勝てそうな気がしません。
でもただ、グラフィックデザインに対する誤解だけは解いておきたかったですね。
学生時代はただただ、
「グラフィックも面白いかもしれないよ?」
としか言うことができませんでした。
しかし、
「父さん、中身は大事だけど、どんなに良いものを作ったってPRできなければ、それを誰も知ることはないんだよ」
と、今なら言えるかもしれません。
note の「こんなデザイナーになりたい」という企画が元になりましたが、
私のデザイナーとしての原点つまり父を超えるデザイナーになることが最終目標なのだということも再度確認するきっかけとなりました。
それは家業を継いでほしいとかではなくて、父が蓄えてきたスキル的なものを継承させたかったのだろうと考えています。
「定規なしで直線を引く技術」はデジタル時代の今では一発芸のようなもの。
これができなければ仕事にならない、というものではありません。
ただ父が私に教えたかったのは、おそらくは「出来ないというのは思い込み」であり、「突き詰めていけばできることがある」ということだったのではないかと考えています。
そういうことも含めて私自身も引き継ぎたいことはたくさんありました。
しかし、それでも未だに父に勝っているとは考えられないのです。
想い出の中の存在を相手にしたら勝てないのは当然なのですが、イメージの中だけでなく勝てそうな気がしません。
でもただ、グラフィックデザインに対する誤解だけは解いておきたかったですね。
学生時代はただただ、
「グラフィックも面白いかもしれないよ?」
としか言うことができませんでした。
しかし、
「父さん、中身は大事だけど、どんなに良いものを作ったってPRできなければ、それを誰も知ることはないんだよ」
と、今なら言えるかもしれません。
note の「こんなデザイナーになりたい」という企画が元になりましたが、
私のデザイナーとしての原点つまり父を超えるデザイナーになることが最終目標なのだということも再度確認するきっかけとなりました。
できれば、娘にはいろいろスキルを引き継いでもらいたいと思っているのですが、学生時代ってそれが大事なものだって考えられないんですよね(^_^;)
最後までご覧いただきありがとうございました!
また他の記事でもお会いしましょう!
最後までご覧いただきありがとうございました!
また他の記事でもお会いしましょう!
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