エヴァ"キチン"と終わったんだぜ。
もちろんそれはボクの主観なんだけどさ…。
あとK君て誰??
デザイン講師ブロガーのセッジです!
今回は「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を見てきましたので、26年に渡るこの作品への思いを語ります!
なんか、いつもの先輩の文体とは違いますが、エッセイなのでご勘弁を!
1995年。
私は「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメ番組が放送されているのは知っていたモノの、出遅れてしまって良くわからず見ていなかった。
しかし、そんな私にエヴァを熱く語り、1クール分を録画したVHSテープを貸してくれたのが年下の友人K君だった。
彼はネットを通じて知り合い、自宅が近く、かつ一人暮らしのためか食生活に難があり、
それを知った妻がちょっと心配したため、たまに我が家に招いて夕飯を一緒する、という付き合いだった。
【この記事は2021年7月24日に更新されました】
ロボットアニメに大きな影響を与えたエヴァンゲリオン
私は小さい頃から特撮以外にも、ロボットアニメが好きでよく見ていた。
ロボットアニメというジャンルの1つ目の転機は「機動戦士ガンダム」と言えるだろう。
それまでの主人公vs絶対悪という勧善懲悪から「正義」とは立場によるモノであるという視点が盛り込まれた。
そして、2つ目の転機こそが「新世紀エヴァンゲリオン」であろう。
ロボットアニメ、そしてSFでありながら、聖書からのオマージュやオカルト要素も含んだ緻密な世界設定などが盛り込まれ、その後のアニメやゲームにも大いに影響を与えたと言われる。
折しも1995年。
世紀末に近い時代背景もあり、ノストラダムスの予言などが刷り込まれた世代には受ける要素が多かったのだ。
最初にエヴァの戦闘シーンを見た時、K君にこのように聞いた覚えがある。
「これウルトラマンのオマージュ?」
「これ監督が庵野さんなんですよ。だからたぶん、そうですね。」
庵野秀明。
学生時代に自主制作映画で自身がウルトラマンそのものになるという映画を作っていたという事もK君から聞いて知った。
であればカメラアングルがウルトラマンや怪獣映画っぽいのも頷ける。
(庵野氏が創業したカラーのロゴの効果音はまさにウルトラマンの変身シーケンスのそれ)
話がずれたが、
K君のおかげで最新話についていけるようになり、毎週エヴァの放送が楽しみになった。
毎週、予想を超える展開とどんどん広がる風呂敷に、
「これはちゃんと終わりにできるのだろうか?」
という印象を持ち始め…
25話で唖然とし、26話で思わず「マジか??」と呟くことになった。
ああいう表現手法だった、というのが公式の発表だったが、視聴者にしてみれば
「時間が足りなかったのでは」
「広げた風呂敷が畳めなくなったのでは」
という憶測が憶測を呼んだ。
その辺りはエヴァが大好きだったK君も半分同意、半分は不同意という感じだったと思う。
エヴァンゲリオン旧劇場版は本当の終わり?
TV版25・26話は、いわばシンジたちの心象風景表現。
それと時系列を同じくした現実世界では何が起きていたのかを描いたのが、
1997年3月の旧劇場版「シト新生」
これで真のエヴァの終わりが見れる
…かと思いきや、アスカが復活するがエヴァ量産型に取り囲まれるという不吉な展開で終わるという肩透かしを食らうコトになる。
本当の完結編は同年7月の旧劇場版「Air/まごころを、君に」だ。
ストーリーとしてはもちろんこれで完結したと言って良いだろう。
TV版では心象風景だったコトが現実世界として描かれていて…シンジにも成長が見られた…かのように思われた。
しかし、旧劇場版のラストはネタバレになってしまうが、
すべての人類がATフィールド(絶対不可侵領域)、いわば自我境界線を失い液体と化した状態のままで、シンジとアスカのみが実体を取り戻した。
そこでシンジはアスカの首を締め、そんなシンジにアスカは、
「気持ち悪い」
と吐き捨てるのだ。
※この辺り解釈が別れるところだが、私はシンジに向けているモノと解釈している。
結局、どのような超常的な体験をしようとシンジはシンジのままだし、アスカはアスカのままなのだ。
つまり人間は成長しないのだと私は解釈し、これが庵野氏のメッセージなのだろう、と考えた。
これはこれで否定するつもりは無いが、娯楽作品としては爽快感は無いかもしれない。
ヱヴァンゲリヲン新劇場版とK君
「エヴァンゲリオンが再映画化される」
というニュースを見た時「またやるの?」というのが率直な気持ちだった。
旧劇場版から新劇場版の間に、実はある事件が起きていた。
それはK君の死である。
大学を卒業し、一流企業に就職し、誰もが羨む可愛い奥さん(こちらも友人)と結婚し、素晴らしい人生を迎えたかのように見えたK君だったが、学生時代の無茶がたたって身体を壊し、それがきっかけでうつ病も併発した。
会社の方も続けられなくなって休職したため、奥さんが家計の柱になっていた。
そんなある日、奥さんが仕事から帰ってみるとK君は大量の睡眠薬を飲み死亡していた。
仕事を終えて帰宅する旨電話した時には会話ができていたという話なので、発作的な自殺だったのかもしれない。
K君の死により、K君とエヴァンゲリオン、あるいは庵野氏の間にある共通点が見つかった。
それが「うつ病」だったのだ。
K君が強くエヴァンゲリオンに惹かれたのも、何か共感するモノがあったのかもしれない。
そういった個人的な背景や、第一作である「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」をネット配信で見た時、ただの総集編にしか見えなかった。
そのため、以降の作品も劇場に行ってまで見ようという気力は持てなかった。(今にして思えば海が赤い、渚カヲルが「碇シンジ」のコトを知っているなど、おかしな部分は一作目からあったのだが)
続く第二作「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」は、真希波・マリ・イラストリアスという新キャラが登場する以外の大きな違いは当初見つけられなかったのだが…。
TV版にはなかった、シンジと初号機によるニア・サードインパクトが起こるという点が大きな違いとなった。
そして第三作「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」は…、旧作とはまったく違う、知らない物語が始まっていた。
私にとってここが新劇場版への興味を持ち始めたターニングポイントとなった。
庵野氏自身は、エヴァ:Qの公開後に激しく批難されうつ病を発症してしまう。
(実は製作中からだったという噂もあり、それがQの陰鬱さに影響を与えていたという説もある)
そこから立ち直ったのは「シン・ゴジラ」を製作・公開し大ヒットしたのがきっかけのようだ。
停滞していたエヴァを、あるいは壊れてしまった自分自身を、全く別の作品を作ることで再構築していったのかもしれない。
シン・エヴァンゲリオン劇場版:||
そして2021年。
新劇場版の完結編「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」が公開された。
これが私に劇場で見る気にさせた新劇場版である。
入場特典で配布されたリーフレットに「ネタバレ注意」とあるため、私としてももう少し時期が過ぎるまでは内容に触れる話はしようとは思わない。
ただ、多くの人が「ちゃんと終わってる」と言っているように、私自身も同様の印象を受けた。
作中のシンジのセリフ
「さようなら全てのエヴァンゲリオン」
というのが今作のフレーズであるが、これは作中に登場するエヴァンゲリオンに対してと、作品としての「エヴァンゲリオン」両方への意味を持っている、と私は感じている。
TV版や旧劇場版の最後はシンジやアスカの内面に触れる意味合いが強かった。
しかし、新劇場版ではまずアスカが大人になり(見た目は変わらないが14年経過しているので)、続いてシンジが大人になっていく。
しかし、頑なに変わらない、ある意味大人に成り切れていない人物がいる。
今作はその人物自身も大人になると言えるので、主要キャラクターの決着が付いた、と私は解釈しているのだ。
ひょっとしたら、
この記事を読んでいるあなたは私と違う解釈をされるかもしれないが、その辺りぜひ見て頂きたい。
最後に、今回の記事は私にエヴァという作品を教えてくれたK君への供養の意味もある。
なので、もう一度言っておきたい。
「K君、信じられないかもしれないけど、 エヴァ"キチン"と終わったんだぜ」
キチンと終わった、という辺りが2人のエヴァの概念を物語ってるようですがw
エヴァを見る度に、彼が熱く語っていたコトを思い出すんでね。
TV版で振り回されたからそういう概念にw
これ以降エヴァが作られるコトが無ければ…w
また他の記事でもお会いしましょう!
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